創設へ向けて

50周年記念事業
座談会「団地創設の経緯から初期当時のエピソード」


【出席者】

宇賀神正
(宇賀神電機(株) 相談役・前組合理事長)
大矢英男
(大矢化学工業(株) 会長・組合副理事長)
小堀剛平
(光商工(株) 元工場長)
坂本廣次
(荏原電機工業(株) 工場長)
白川節太郎
((株)白川電機製作所 会長・組合理事長)
藤岡康太郎
(キムラ電機(株) 社長・組合副理事長)
久保田勝三
(「オブザーバー」/荏原電機工業(株)
社長・組合副理事長)
【司会】
宇賀神清孝・山本庸一
<敬称略/五十音順>

 

 

宇賀神(清) 本日は、お忙しい中、相談役、正副理事長、並びに往時を知る工場長の関係の皆様にお集まりいただきありがとうございます。さて、今年は、団地創立50周年ということで、記念事業を進めているところですが、その一環としてホームページを開設し、記念誌に代えてホームページ上に、これまでの団地の歩みを記録、保存したいと考えています。 記念誌で言えば50年史ということになりますが、この座談会は、年史というよりは半世紀の総括ということで、50年に至る歩みと、創立当時のことやご苦労を、昔をよく知るお歴々の方々にお集まりいただいてお話を聞きたいということで、企画した次第です。

まずは、団地を創設するに至った経緯からお聞きした。
時代は東京オリンピック開催前、高度成長期まっただ中の昭和36年まで遡る。当時、都内に工場を構える配電盤メーカーの多くは、高度成長期による需要拡大と受変電設備(キュービクル)の大型化により、工場が手狭になっていた。

白川 宇賀神さんのところのキュービクルは、いつ頃から始まったんですか。

宇賀神(正) 正確には覚えてないけど、電気博が、上野(恩賜)公園で開かれた頃ですね。その頃、キュービクルを出したので、何年頃になるかな…。

大矢 昭和37年?

白川 いや、それより前ですね。(宇賀神)金四郎さんの回顧録『私の50年』によると“昭和34年”とあります。

宇賀神(正) そう、昭和30年代前半に近いほうだと思います。

白川 その時分にキュービクルというものが出始めて、200坪位の工場では、とてもやっていけなくなってきたというのが(移転の)きっかけのようですね。

宇賀神(清) 『私の50年』を見ると、昭和30年当時、(日本)配電盤工業会員が集まると、板金の問題が話題になって、「板金が一番困っている」と、書かれています。当時は、板金が生産のネックか何かになっていたのですか?

宇賀神(正) 宇賀神電機で言うと、近くに三ヶ尻さん(三ヶ尻工業)とか、古谷野さん(東京特殊工業)など、板金屋さんが2、3軒ありました。だから、宇賀神電機としては、あまり困っていませんでしたが、他の皆さんは確かに、困っていたかもしれませんね。

宇賀神(清)  『私の50年』には、働き手の問題や、工場の手狭さということで、「どこかに行くか」という話になったとありますが、それが何故「みんなでどこかに行くか」という話になったのですか?

宇賀神(正)  当時は、配電盤メーカーも、部品の調達や板金や塗装には苦労をしていました。キムラ電機さんや光商工さんの扱う部品ですね。ただ、部品でもブレーカーなどは、すでに重電大手メーカーがやってましたから、そこはあまり不自由はしなかったんです。
 配電盤には、光商工さんの継電器を付けなければいけないものもあり、板金や塗装も含めて一か所で調達できるように、当時の社長さん方はいろいろと考えて、(みんなで行こうと)決めたのでしょう。
「どうだ、どうだ」と、かなりの配電盤屋に打診しました。
結局、団地への参加を決めたのは二十何社だったかな?

大矢 最初は21社です。

宇賀神(正) そう、それが始まりでした。

白川 「(組合の初代)幸田理事長が、総和村と三和村が工場誘致をしているという話を持ってきた」とうちの父が言っておりました。その話から、みんなが乗っていきました。

大矢 工場が手狭になったのは、配電盤もキュービクルも、戦後、大理石から鉄に大きく代わったので、すごくスペースを取るようになったことも原因でしょうね。特にキュービクルを造ったら絶対に狭いですよ。

小堀 普通の工場では絶対だめ。配電盤を何面もずらっと並べると、以前の工場ではとても狭いです。

白川 当時は、継ぎ足し継ぎ足しの工場でした。

大矢 (移転の)きっかけの一つに、当時は、配電盤の業界全体がものすごく景気がよかったこともありますね。

白川 オリンピック特需。

大矢 オリンピックの前から、桁違いです。配電盤の業界の鼻息の荒さというか、何というか、凄まじいものでした。私たち塗装屋からすると、他のをやめても配電盤をやろうという気になるぐらい凄かったです。所得倍増論のちょっと前辺りから、桁違いです。宇賀神さんの先代(金四郎)が、「大矢くん、あのときは、3倍か4倍もうかった気がしたよ」と言いました。

白川 それは何年頃ですか。

大矢 昭和35、6年です。本当に桁違いでしたね。人件費は上がっていないのに、入るものは幾らでも入ってくるという感じでした。
配電盤組合で熱海とかへ旅行に行くと、一流の芸者を全部上げます。これはすごい。どうかなってしまったと思いました。そのくらい勢いがありましたね。

宇賀神(正) 確かに、オリンピックの2、3年前は凄かったね。競技場にしても、高速にしても、地下鉄にしても、とにかくバンバン造るし、景気がすごく良かった。
区画整理で、工場の土地が取られるところも随分ありました。そんなこともあり、工場敷地も狭くなったし、製造するモノは大きくなったで、どこか(移転先が)ないかということで、親父さん達がいろいろ探し歩きました。

大矢 あんな鼻息はあの時しかなかったと思いますよ。だからという事だろうと思いますね。まとまって行こうという気になったのも。


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